リンカン
リンカン
「合衆国市民」の創造者
リンカン
出版社
出版日
2025年02月20日
評点
総合
4.0
明瞭性
4.0
革新性
4.5
応用性
3.5
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おすすめポイント

リンカン。もしくはリンカーン。この名は合衆国から西に海を隔てた日本でも広く認知されている。おそらく多くの日本人は、アメリカ合衆国の大統領であったことも知っているだろう。義務教育の教科書にも、奴隷解放宣言という彼の功績とともにその名は刻まれている。リンカンが生きたのは、合衆国の広大な大地を西へ向かって開拓していくフロンティア時代だった。家族とともに流れ着いたイリノイの発展を見守りながら、リンカンは政治家としての素養を育んでいく。

こうした足跡(そくせき)を入念にたどっていくのが本書である。リンカンを語るとき、避けては通れないのが当時のアメリカの「空気感」だ。フロンティア時代の開拓の情景を具に思い描ける人は少ないだろうが、本書のページをめくると、当時のアメリカの状況を、イリノイに広がる森の香りとともに克明に想像できるはずだ。

そして、もうひとつ忘れてはならないのが奴隷制である。現代の倫理観からすると、奴隷制が許されないのは明白だ。しかし、当時のリンカンが純粋な良心から奴隷制を批判したのかというとそうではない。政治的状況や合衆国の政体といった複雑な要素が絡み合う中で、リンカンは明確に奴隷制反対の立場をとるに至った。その背景には、アメリカ合衆国の未来を見通すことのできる、類まれなる洞察力があった。

指導者としてのリンカンの知性と生きざまは、現代に生きる我々にとっても、多くの示唆に富んでいるはずだ。

著者

紀平英作(きひら えいさく)
京都大学名誉教授。歴史家(近現代世界史)。1946年生まれ、2025年没。京都大学文学部史学科現代史学専攻卒。博士(文学)
主著―『ニューディール政治秩序の形成過程の研究──20世紀アメリカ合衆国政治社会史研究序説』(京都大学学術出版会、1993年)、『パクス・アメリカーナへの道──胎動する戦後世界秩序』(山川出版社、1996年)、『世界の歴史 第23巻 アメリカ合衆国の膨張』(亀井俊介氏との共著、中央公論社、1998年。のち中公文庫、2008年)、『ニュースクール──20世紀アメリカのしなやかな反骨者たち』(岩波書店、2017年)、『奴隷制廃止のアメリカ史』(岩波書店、2022年)、『始動する「アメリカの世紀」──両大戦間期のアメリカと世界』(山川出版社、2024年)など

本書の要点

  • 要点
    1
    アメリカ合衆国のフロンティア時代、ケンタッキー州に生を受けたのがリンカンである。リンカンは幼少の頃より知的好奇心にあふれ、教養を培いながら成長し、成人したのを機として独立する。
  • 要点
    2
    リンカンが政治の世界に足を踏み入れた当初は、奴隷制に対して積極的に発言するようなことはあまりなかった。リンカンが本格的に奴隷制について論じはじめるのは、内戦の少し前である。
  • 要点
    3
    奴隷制の是非をめぐりアメリカは南北に分かれて戦った。大統領・リンカンは、内戦鎮圧を目的としながら、最後には奴隷制について反対の立場を示した。

要約

【必読ポイント!】 フロンティア時代を駆け抜けて

西へ、西へ
BrAt_PiKaChU/gettyimages

フロンティア時代、森深きケンタッキーでリンカンは生を受けた。開拓地の地権争いに敗れた父親に連れられてケンタッキーを離れるまで文字すら学ぶことがなく、その後に10代で受けた唯一の教育も、寺子屋のような学校に二学期だけ通っただけだった。

リンカンは知的好奇心が高く、10代初めから聖書や『ロビンソン・クルーソ』『イソップ物語』などの読書を好み、20歳前後には政治論議を掲載する新聞紙にも触れていたと思われる。荒くれ農夫の典型たる父とは性格的に水と油だったはずだ。しかし、このような齟齬があっても20歳になるまで家族と丸太小屋で過ごした。子煩悩で家族を大切にした後年のリンカンを思うと、こうして「周囲に向けられた慈しみも彼の人格の一要素」といえるだろう。

リンカンが成人し、自立への一歩を歩みだした頃、1830年代のアメリカは、居住地が西に拡大していく地理的、水平的膨張をおこしていた。1830年には1286万人強だった人口は30年後には2.4倍の3144万人にまで膨れ上がり、そのうち29歳以下の青年男女は7割を占めていたのである。

さらに、1815年のヨーロッパにおけるナポレオン戦争の終息は、「国際的緊張からの解放と、長期の平和をアメリカに約束」する。加えて第二次英米戦争の終結が人口の自然増や移民の流入につながり、アパラティア山脈を越えて新たな生活拠点を作り出そうとした。

南部の移住では奴隷主が主力となる一方、中部から北部にかけては、開拓農民を目指す単身の青年や、職人もしくは商業に携わりたいものなど、貧しくとも希望を胸に移動したのである。こうした共同体社会の多元的な拡張は西漸運動と呼ばれた。そんな西漸運動の初期にリンカンの家族が向かったのが、草原地プレーリーが広がる開拓地のインディアナ、およびイリノイだった。

膨張する合衆国
DNY59/gettyimages

リンカンは、民兵として先住民との戦争に従軍したときに、2歳年上の弁護士ジョン・スチュアートと知り合う。スチュアートはリンカンの才知を認め、ホイッグ党への参加を勧めるなどした。この頃のリンカンは法律書を読み、政治家・弁護士への野心を燃やしていた。

1830年半ば、合衆国全体では民主党とホイッグ党の二大政党が各地の青年を取り込み、全国政党への体制を着々と完成させつつあった。リンカンはまさしくそのホイッグ党のネットワークを利用し、34年に2度目の挑戦にしてイリノイ州議会議員に当選する。さらに36年9月にはイリノイ州での弁護士資格を取得した。小屯の住民は「リンカンの猛勉強を地域ぐるみで見守り、温かく接していた」という。

若い政治家らしい野心と未熟さで邁進したイリノイ総合開発計画が頓挫すると、その政治的、心理的立て直しのためか、4期務めた州議会議員の改選選挙に出馬しなかった。1846年の連邦議会下院選挙に勝利し、一時ワシントンに転居して、ここでも積極的な内陸開発推進論を展開する。イリノイホイッグ党の内規に従い、任期を終えて1849年春にスプリングフィールドに戻ると、政界からは距離をおいて弁護士業務に専念した。この間、リンカンは自らの政治的停滞を打破すべく、少なくとも1852年半ば頃までには奴隷制問題に焦点を移していた。この変化の背景には、奴隷制そのものが合衆国の発展と政治統合に負の影響を及ぼし始めているという確信もあったのである。

アメリカ合衆国は、1840年代後半の対メキシコ戦争でカリフォルニアを獲得するに至ったが、これは一方で政治論理の大きな変化をもたらした。大統領のジェームズ・ポークや民主党指導者の多くは開戦の原因をメキシコに求めたが、ホイッグ党の急進派は南部奴隷州勢力による侵略戦争だとして、新領土に奴隷制を持ち込むことへの反対を争点にした。この対立は民主党内にも広がり、自由土地党結成の動きにつながっていく。既成政党以外でも奴隷制の即時廃止論者、いわゆるアボリショニストなどの集団が政治的な動きを強めた。

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要約公開日 2025.05.03
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