専門知は窮地に陥っている。アメリカ合衆国はいまや、みずからの無知を礼賛する国になってしまった。たしかにわたしたちは、科学や政治や地理についてよく知らない。だがここで問題なのは、わたしたちがものを知らないことを誇らしく思っているという事実だ。
いまやさまざまなテーマにおいて、一般の人々が不十分な情報にもとづく持論を披露し、なぜ専門家の助言を信じていけないのかを積極的に説明している。しかも彼らは、怒りをこめてそうしている。
昨今の専門知の拒絶には、独善性と激しい怒りが垣間見える。医師には自分に必要な薬を指示し、教師には子供がテストで書いた間違った答えを正解だと言い張る。とんでもない間違いだ。
ロシアがウクライナに侵攻したことを受け、「アメリカは軍事介入するべきか」とアメリカ人を対象に世論調査を行なったところ、ウクライナの場所を地図上で正しく示せたのは6人に1人だけだった。ここで気になるのは、ウクライナに関する知識の欠如と正比例するかたちで、同国への軍事介入を支持する割合が高くなったことだ。
専門知の死という言葉で、実際の専門家の能力や知識まで死んだと言うつもりはない。今後もさまざまな分野の専門家は存在しつづけるし、専門家がいなかったら世の中は回らない。ところが人々は、以前にも増して専門家との対話をしたがらなくなっている。一方で専門家たち(とりわけ学者)は、「一般の人々と対話する」という義務を放棄し、仲間うちの議論だけに終始している。
専門知の死という言葉の本質は、既存の知の拒絶だけではなく、現代文明の土台である科学と公平な合理性の拒絶にある。「どんなくだらない意見でも、他の意見と平等に認められるべき」というのは単なる悪平等であり、たいていの場合は危険ですらある。
専門知の死の真の問題は、たしかな知識に対して人々が無関心になることではなく、そうした知識に対して憎悪が向けられるようになったことにある。専門知の死によって、人々が自分を実際よりも博識だと考えるようになると、これまで何年もかけて獲得されてきた知識が失われるかもしれない。
専門知はあらゆる職業につきものだ。専門家とは、ある分野について一般の人々よりはるかに深い知識をもち、人々がその分野における助言や解決策を必要とするとき、頼りにする人間を指す。専門家とそうでない人を見分ける目安となるのは、教育や才能、経験や同業者による評価といったものだ。こうした要素は数値化が難しい。だが専門家について考えるとき、忘れてはならないのは、不器用な専門家でも素人よりはマシということだ。たしかに専門家もミスはするが、素人と比べると、その危険ははるかに少ない。
専門知を定義するのは難しいし、専門家と素人の区別がつかないこともある。当然ながら、完璧な知識をもった人間はいないし、最高の教育を受けた人々でも、初歩的なミスをおかすことはある。だが仮にそうだとしても、あることについてほんの少しかじっただけの人と、決定的な知識を有する人とを見分けられるようになる必要がある。
実際にはあまり優秀ではないのに、自分は優秀だと思い込んでいる人間がいる。聡明でない人ほど、自分は聡明だという自信を強くもっているのだ。
3,400冊以上の要約が楽しめる